そばにいます

X4 KODAI くんの定点レポートです(その他雑感)

目に見えないもの。

ポエマーな文章を書いていたけど全て消えた。

感覚、意味、感情、とか。

私はそういう目に見えないものを信じる傾向にある。勝手に人のものと自分をリンクさせて、すごいことだと語りたくなるときがある。

今がそんな時だったりする。

 

わたしは目に見えないものの力を信じすぎるんだと思っている。感覚にあてられて体が熱くなって気持ちが高ぶって、泣きたいのか笑いたいのか悲しいのか楽しいのかわからなくなる時がある。

 

自分が歌ってた時、うねりをあげるベースの音、ボリュームをあげた心音みたいなドラム、衝動をかき鳴らすギター、そこに自分の声がのると、溶け合うみたいな感覚に陥ることがあった。気づいた時には終わっていて、言葉にできない感覚がある。爽快とも違うのだけど何かを突き抜けた感覚があって、虚無感や喪失感もつきまとうけどすごく気持ちが良かった。ぼーっとしてたと思ったら一気にはしゃぎたくなったりして、アドレナリンが出て落ち着かなくなったりするのだけど。

 

音を食べるみたいな、ものを食べると自分の地となり骨となり肉となるじゃないですか。その時の自分を構成する全てに音がなってしまって、音に食われて自分を失うんだけど、その感覚がすごくすきだったんですよね。アンプに乗ったり会場からいなくなったり、ヒール投げたりしたことは反省してます。私はこういうときだけ外向的になったりする。何かを発散したくなるんでしょうね。

 

 

 この方面にはまってから、そういう意味でイっちゃってる瞬間って見なくなったし感じなくなったと思った。プロは計算してギリギリのところを攻めるから私たちが感動する余白があるのだと思ってるし、うまく残すんだ。

まあもちろん、ステージ上で先にイかれられちゃあこっちの入る隙がなくなってしまう。そのギリギリを音で表現で繋いでくれる人が時としている。いま、同じ音が流れてるっておこがましながらも思わされる。地団駄踏みたくなるくらい感情がとめどなくなるくらい引き込まれるって機会が減った。

 

何においても、わかりやすいが当たり前の時代でわかりやすい言葉にわかりやすく共鳴しているようなパフォーマンスが評価を得るし、もちろんそれを成し遂げ、人気のある人たちはレベルの高いところにいるからこそできる技だと思っている。(自身のレベルの高さじゃなくて周りの演出のレベルの高さという意味もあるけど)

 

まあすきになるとそういう一枚挟んだフィルターが取っ払われて、冷静に見ることなんて少なくなるんだけど。

 

でも私はそのギリギリを、どんなに遠くにいてもステージの上から自分の目の前まで届けてくれる人がすきなんですよね。声の圧や歌の伸びとかそういうことはもちろん、感情がギリギリのとこまでくるなと思える歌がすき。

 

それは自分がぶつかりに行かないとわからないことで、前後左右気になる暇もないくらい目を奪われて息がつまる感覚にならないと自覚ができない。彼に惹かれてから、彼だけを見るということはあってもそんな瞬間は実は数える程で。技巧は完璧でも、今日はここまで来なかったなって悔しいけど思うこともあった。(私はいつだって彼の歌を過大評価していたいし、全肯定していたいけど)

 

それが3/27のあべのキューズモール、#musicoverdoseのロングトーンを聞いた時「ああ、この人の音をもっと聞きたいな」と思った。彼にとっては予定調和だったかもしれない、私にとっては耳がビリビリしてこの人の音ってどこまで行くんだろうと思った。胸が高鳴って言葉に詰まった。この時のことはもうずいぶん前だから言葉にするのも難しい。けど、彼の歌とか言葉とかじゃなくて、音を通した表現がすごいと思えたんだ。自分の脳髄を突き抜けたような、銃弾が聞こえたような、撃ち抜かれたような笑 比喩がなんだか厨二病っぽいけどそれ以外に言葉を知らない。

 

他にもいいと思った時はたくさんあるし、彼が自分で言うように「その時感じたこと、考えたこと」を乗せて歌っているというのがすごく伝わってくる流れてくるように感覚だけが残される。でも、自分が慣れてしまってその一つ一つを受け止めることができないでいたのかもしれない。なんか、違うなって思うことがあった。もちろんそれは歌だけじゃなく、活動の仕方だったり彼の選ぶ言葉や行動が自分にはまらなくなっていた。ああ、私はこの人の音を追いかけられなくなるかもしれないと思った。それが悔しくて、毎日考えた。考えても話し合うこともわかってもらうことも出来ないし、わかってもらいたいとも思わなかった。まったく同じ景色を見る日なんてこないことは、わかっているから。彼の音を確認することで、私は変わるかもしれないと思った。でも正直、そう思い込みたいだけの期間の方が長くてつらかった。

 

 

でもつい最近、自分が欲しかった感覚に襲われた。ライブも3日間続きが当たり前の今回のツアー、体力的な意味でもギリギリのところに来ているんだろうなって顔を見ても思った。だからこそかもしれない。最初から彼らは息がつまるくらいのパフォーマンスだった。こういうとこ、YUYAくんとKODAIくんは顕著だと思う。逆境を力に飲み込んでしまう。心臓すり減らしてライブやってるなって生きてるなって、いつもなら疲れてるな心配だなって思って勝手な不安を巡らせることもあるのにこの時は嬉しくて楽しくて仕方なかった。

 

マイクを落としてもなんてことない顔して、さっと拾い上げて次の瞬間には歌いだした彼の顔を見て安心した。感覚で生きてるなって。計算して歌いあげる姿ももちろんすきだ。自分の思う工程通りに歌を運ぶのがすごく上手だし、それを誰かに崩されたくないというプライドの高さを持っているところも。でも、この人の歌は、やっぱりその時その場で音に乗るように自分の歌を発するんだと思った。まだツアー中なのでそう感じた曲の瞬間を言葉にできないのが惜しいけど、目の前まできた。

 

気持ちがのる瞬間がわかった。視線や表情を確認できる場所にいたからかもしれない、自分の感情も高まって仕方なかった。

ねえ!たのしい!?たのしいよね!?ってハイテンションになって聞きたくなるくらい、ずーっとそのあとまで続いた。すげーたのしいって言葉がするりと出た。

 

彼は伝えたいというけど、自分の音に自分で酔っていてほしい。悔しいくらいに音を操れるのだから、自分の気ままに歌っていてほしい、そのためなら私はいくらでも応援していたい。絶対こんな感覚を信じないだろうけど、自分の音を表現してる彼を見ると安心するのと同時に頭全部おかしくなるくらいパブロフの犬みたいに、つぎ!つぎ!ってなる。それだけ中毒性があるってこと。誰かのために、なにかのために、はまるっと自分のためにしたい彼のことだから、音さえそうなんだと思う。彼にとっての自由も楽しいもすきも、私は知る由がないし絶対に答えが出ない。

 

でも、自分の存在価値を音楽だと思っていてその表現をやめない限り、彼のその音楽をする意味が自分を求めてくれる人である限り、私はその意味でいようと思った。何回も辞めたいと思った、この人にこんなに考えさせられる理由がわからなかった。今もわかってない。ただ確かにこのライブの時に思った。歌を歌うべき人だと。いまも、何も考えずに明るみだけを見て応援したい笑でもそんなのは無理で、考える余白が常にある、つきまとっている。極端なんだ、表現しようとすればするほど歌だけじゃなく言葉だって自分のことがストレートに出てしまうから、しなくなったのかなと思ったりして。でも歌だけは、音だけはどうか自由であってほしい。言葉が意味する先にある、彼の音はすごく自由だとこの前思ったんだ。

 

こんなに書いてるけど、彼にとってはなんてことないいつもと同じライブだったかもしれない。でもファンとアーティストはその繰り返しだ。その錯覚をさせてくれることこそ、私は愛してしまう。

あー、いま、この人と同じ音が流れているんだと思った。言葉にできなくて表現しきれない。こんな時こそ私の御託が並ぶべきなのに、笑っていたそれが嬉しくてずっと笑っていた。同時に泣いてもいた。感情の止め方がわかんないこどもだった。

 

手を握って目を見て話してわかることもある、実際に言葉を交わし合うのだから。逆に手紙に認めた方がいいこともある。でも音楽が繋ぐ関係は、そんなことよりもたくさん音が教えてくれる。生の音が聞かせてくれる。それだけを信じるのは難しいけど、私は何度だってこの瞬間を待ってしまう。むしろ私はこの人に何を伝えても私と同じ景色には感覚にはならないだろうと思っている。本人に伝えたいことはずっと一つだ。誰かのためになにかのために自分の歌があると思うなら、歌い続けてほしいと。

 

500日経って見返してみても、いつも歌のために存在しているように見える彼がすきだった。これからも多分変わらないと思う。

 

そして、わたしはいつまでも宗教的で追い求め続けてしまう。あ、でもこーだいくんすきすきだいすき人間ですけどね。本人にはこんな感覚のことは言えないので話したこともないし話せないし、なんならいまも頑張って絞り出して言葉にした。彼の歌が心からすきだと思い返せたことが嬉しかった。

 

 

心の叫び、聞かせてくださいよ。

難しいことはいらないし(この発言が難しくしたがる自分にとってどれだけ勇気がいるか!と言うことを書くことが野暮ね)同じ音で繋いでほしい。500日飽きずに彼のことを考えてました。必死に追いかけて、必死に考えて答えを出したかったけどまだ出せません。

 

 

 聴けば聴くほど、曲とかじゃないあなたの歌に浸っていって鳥肌がすごいよ。

 

しびれた500日間だった。

 

言葉を借りました。まさかのタイミングで伝えたいことの伝え方がちがうことをまた知った。これからもちがう景色を音で共有できますように。